私の養殖日記2006/10-12
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●12/28  昨日、レインボーの孵化稚魚を自宅の養魚場に20万匹運んだ。これから約1ヶ月間世話をすることになる。一昨日、アユの稚魚を10万匹購入したから、今まで静まり返っていた養殖池が急に活気づいた。アユは平均魚体重0,7g レインボーは0,1g以下。全部合わせても100kgまでない。1日に魚体重の4%の配合飼料を食べたとしても、全体でたったの4kgだ。バケツ半分ってとこか。これをアユは4回。レインボーは5−6回に分けて与える。

レインボーは、まだヨークサック(さいのう)を付けているので最初は配合飼料を食べない。孵化盆から養殖池に出された時は、何万匹という単位で固まって沈んでいる。ヨークサックがほぼ吸収されると、エサを求めて(想像)水面に上がって来る。そこへ細かい(粉状)の配合飼料を撒くと、興味を持って口にする。これが「餌付け」作業だ。かつては数万匹づつ小さな水槽に入れて、サカナの様子を見ながら1日何回もエサを手で撒く非常に根気のいる仕事だったが、アユの養殖池を使って、1度に20−40万匹を餌付けしてみたら簡単に出来てしまった。水温が高いという有利性もあるが、今では最初の数日は手撒きで給餌するが、その後はアユと同じように自動給餌機でやってしまう。



●12/25 ネパールの写真を貼ったり日記を書いていたら、あっという間に年末になってしまった。自宅がある小さな養魚場はレインボーとアユの稚魚を飼っているのだが、たいてい9月か10月に全てのサカナの出荷が終わる。新たに稚魚が入って来るのは、運が良ければ1月5日以降、悪いと12月30日なんてことも珍しくはない。最近、連続して運が悪く、1月2日に運んだこともある。

稚魚で購入する場合、売る方は年末に売ってしまいたいし、買う方は1週間程度の遅れなら1月5日以降にしてもらいたいものだ。今年は運悪く??今日はアユが入ってきたし、2−3日後にはレインボーの孵化稚魚が入ってくる。いずれも10万匹、20万匹と大した数ではない??ので、その世話に取られる時間は2時間程度なのだが、朝は薄暗い内に、夕方は暗くなってしまう前にサカナの様子をチェックしなければならないので、一日が非常に忙しなくなる。この時期は明るい時間が短いのでなお更だ。

これから秋まで自宅の養魚場はサカナで一杯になるので、一日中留守にしたり、泊り掛けで何処かに行くなんて事は出来ない。養魚場オーナーらしい生活に戻る訳だ。レインボーの発眼卵は、私がネパールから帰ってきた翌日に届いた。ほらほら、どんどん仕事しろよ・・・と言われているようだった。



●12/22 トルクメニスタンのニアゾフ大統領が亡くなった。私は世界情勢について詳しい訳ではないので、大統領の名前を知っている国は10ヶ国にも満たない。その中にトルクメニスタンがある。トルクメニスタンは91年にソ連が崩壊と共に独立、中央アジアの国だ。殆どが砂漠だが石油が出る。首都は砂漠の中の小都市アシガバッドだ。千一夜物語で有名な「メルブ」という町の遺跡がある。それをどうしても見たくて5年前に行って来た。

メルブは大したことなかったが、アシガバッドには驚いた。今まで行ったことがある何処の町とも違う眺めなのだ。砂漠の真ん中にありながら、そこらじゅう噴水だらけ。高層ビルの最上階が回転レストランになっていて、その周りはこれまた水だらけ。大量の水が外壁を伝わって滝のように落ちている。これだとラスベガス?って感じなのだが、国籍不明の巨大建築物が、これまた必要以上に広い道路の両側に並ぶ。白と青が基調になっているので、なんとなくイスラムっぽくはなっている。それらの外壁は全て大理石に・・・というのが大統領の建築基準なんだそうだ。

街を歩けば、いたるところにニアゾフ大統領の肖像画やポスター、公園には彼の金の像、どこのホテルも外壁には彼の巨大ポスター、何てったって通貨は札もコインもニアゾフだ。TVを点ければ必ずニアゾフが微笑んでいる。そのニアゾフだらけの数日のせいに彼の名前が頭から離れなくなった。独裁といえばそうなのだが、北朝鮮やかつての共産諸国のように国民に悲壮感は見られない。貧乏そうなのは事実だが、都市部では!医療や教育の無料化、保証制度は徹底してるらしい。ガソリンは満タンで2ドルだったかな・・・メーターは無かった。

きっとクーデターが起きてニアゾフは殺されるか亡命せざるを得なくなるんだろうな・・・って思っていたのだが、心臓病で死んだそうだ。もしかしたら、本当にいい人だったのかな?? 緊急追悼・・・写真館に「ビックリシティ、アシガバッド」をアップしておきます。



●12/21  24年目のアンナプルナサンクチュアリ 5

 アンナプルナサンクチュアリを後にすると、暫らくは下り坂が続くので、一気に距離が伸びる。余裕があるので帰り道には景色が良いところを選んで泊まる。2日目は温泉があるジヌーに泊まろう・・・ということになっていた。チョムロンという最初の村(最奥)で昼飯を食べて出発。ガイドとポーターが、ロッジのヤツと何時までも喋っているので「先に行ってるからな・・・ジヌーで待ってるぞ」と私はカメラが入ったリュックを背負って先に村を出た。地図上では村を出て峠を越えると、直ぐに左に下りる道がある。そこからは1本道で迷いようが無い・・・はずだった。

その分岐点を捜したが見つからない。まぁいいか・・・と、峠を越えた後もどんどん下っていった。ありゃ、これは下り過ぎか? 降りて来た道を振り返ってもガイドやポーターの姿は見えない。完全に道を間違えている。ひとりなら大した問題では無いのだが、ガイドが心配してるだろうし、服も地図もポーターに預けてある。とりあえず降りて来た道を峠まで戻ったが、「ジヌーはこちら・・・」の道案内は見つからなかった。もしかしたら、ヤツら、まだロッジでお喋りか??とも思い、さらに昼飯を食ったロッジにまで戻ってみたが誰も居ない。

ジヌー ザーネ バトー クンホー・・・ひとりでトレッキングをしていると、ネパール語で道を尋ねたりは出来るようになる。親切に教えてくれるのだが、どうしてもジヌーに降りる道が見つからない。子供が連れて行ってくれた分岐点の道案内は、後から立てられたネパール政府の看板に隠されていた。危なっかしい急坂を一気にジヌー温泉に向かって降りていくと、心配して登り返して来たガイドと会った。



●12/20 24年目のアンナプルナサンクチュアリ 4

私はトレッキング中は酒を飲まない・・・ことにしている。まぁ、いろんな理由はあるが、こんな時にしか休肝日が出来ないし、山小屋や食事が酒に合った雰囲気ではないことも、禁酒をさせる気にしてくれる。日中、大汗をかくので晩酌が美味かろう・・・とも思うのだが、夕方になると気温が一気に下がるし、メニューも腹が減っている時に「ご飯が、どーん」って感じなので、強く?意識しないと飲む間が無い。毎回、大変な自己満足と共に帰国する。

ところが、このジヌー温泉では昼過ぎまでずっと歩いた後温泉に入り、帰りの登り道を汗だらだらで帰って来る。しかもジヌー温泉のロッジの庭には、カラフルなビーチパラソルが並び、赤や黄色の花が咲き乱れ、見たこともないチョウチョが乱舞している。ロッジには冷蔵庫なるものがあって、ヤバいことにビールが冷えている。これでも飲まないというのは「神を冒涜」しているのではないか・・・誰も止めるヒトはいないし。こうなりゃ、飲んだついでだ。ガイドに「ニワトリ買って来い、ビール飲み放題だ!・・・あ、君達はなるべく安いロキシー(地酒)飲んでね」ロッジに泊まって食事をして1500円位しか掛からないのに、ニワトリ1匹も同じ位する。ネパールではニワトリは高い。特にその辺を散歩?している地鶏は時価ってヤツで年々高くふっかけられる。

私は酔っ払いが嫌いなのだが??酒は確かに、いろんな意味で心の壁を取り去る。ここまで、余り喋らなかったガイドが、5−6年前に自分がガイドしていた日本のオヤジが高山病で死んでしまって、警察署に数日拘留された話や、カイラス巡礼に行くインド人のガイドを15回もしたという話は、そのまま私のトレッキングが終了してしまえば、一生聞くことが無かっただろう。やはり「神を冒涜」してはいけないのだ。

いずれにしても、私には大きな事件であった。実は本当の事件はジヌー温泉に向かう道で起きていたのだが・・・。



●12/19 24年目のアンナプルナサンクチュアリ 3

ネパールは意外に?温泉が豊富だ。遠い昔、インド亜大陸が流れ着いてぶつかり、その時に出来たシワがヒマラヤだというし、いまだにヒマラヤは上昇し続けているというのだから、膨大なエネルギーが潜んでいることは確かだ。ネパールでは日本のように「温泉は金になる・・・」という理屈が浸透?していないので、ひっそりと、それはある。村外れに温泉があるぞ!・・と聞いてパンツ一丁サンダルで飛び出すと、崖から熱湯が浸み出しているだけ・・・なんてこともある。最近ではトレッカーが「温泉のある村を選ぶ」こともあるせいか、ちゃんと湯船が装備?された温泉も登場してきた。

アンナプルナの一般的なトレッキングコースはほとんど歩いたが、残っていたルートにジヌーという温泉があった。サンクチュアリから戻る途中で泊まってみた。ジヌーという村自体、最寄の道路?から歩いて2日かかるので、一般的には充分に秘境だ。だから村内のロッジの傍に温泉があるのだろう・・・と勝手に解釈していた。ネパールの温泉は大抵河原にあって、氷河から流れ出た冷たい水を引き込んで水温を調整している。ロッジから見ると、遥か下に川が流れているのが見える・・・もしかして、あれ?? 当たって欲しくない予感は当たる。標高差は200−300mはあるだろう。温泉までの下りに15分、戻って来る登りに20分は掛かってしまう。正しく「秘湯」がそこにあったのだ・・・あ〜疲れた。

この後、事件は起こった。



●12/16 24年目のアンナプルナサンクチュアリ 2

アンナプルナサンクチュアリは、そんなに遠くはない。カトマンズから飛行機で30分ほど飛んだポカラという風光明媚?な街から、クルマで1時間、そこから急げば4日間歩くだけだ。今回は、その往復に10日かけた。といっても停滞した日が1日、2−3時間しか歩かなかった日が3日あったから、「もうイヤだ〜」というほどは歩かなかった。ただ、このコースの坂道は凄い・・・と思う。サンクチュアリに入る前日は、標高差1500mを登るし、それもアップダウンを繰り返しながらだ。

途中も峠に立つと、遥か下に川があり、そこに小さな橋が架かっているのが見える。もしかして、あそこまで降りて、また向こう側の尾根に登り返すのか・・・?という恐ろしい予感は100%的中する。200m降りて400m登る、400m降りて600m登る・・・を繰り返し徐々に高度を上げていく。「なんでネパール人は、もっと平らな道を造らないんだ・・・・」等と本気でぶつぶつ言いながら歩く。

ネパールといえば「山国」、寒いと思われ勝ちだが、実際には日本よりも緯度が低く、1500m以下のところは亜熱帯気候だ。トレッキングはバナナが茂るジャングルからスタートしたりする。3000mになっても、日中にそんな坂道を登ると汗が吹き出す。日が沈むと一気に寒くなり、ビールを飲む気にもならないのが幸いだ。



●12/14 24年目のアンナプルナサンクチュアリ 1 

次に泊まれるところは何処?と尋ねると、「2時間くらいのところのヒマラヤホテル」と言う。チョムロンという村から先に人が住んでいるところは無い。トレッカーが訪れる期間だけ、竹を編んだ屋根で作られた簡単なシェルターが用意されている場所がある。5−6人が雑魚寝できる程度で食事もあり合わせだ。事前に情報を確認しておかないと大変なことになる。

雨に追い掛けられるようにして辿り着いた「ヒマラヤホテル」も、この辺りで言うところの「バンブーハウス」で床は草の上にビニールを敷いてあるだけだった。客は私ひとり。そこのオヤジが作ってくれた豆スープと米だけの食事をしていたら、そのオヤジが「お前のしてる腕時計、売ってくんないか?」と言う。安物ではあったが、この先も必要なので断った。寝袋に入った頃、そのオヤジがククリというネパールの山刀を「シュッシュッ」と研ぎ始めたではないか。まさか、腕時計欲しいがために・・・ここは超山奥、最寄の人家は10km以上先だ。やばいぞ・・・寝袋に入ってしまったら抵抗すら出来ない。

と、恐ろしくなったが気が付いたら朝になっていた。一日中歩き回って疲れていたのだろう。夕べのことを思い出し、一気に眼が覚めた。オヤジは1mくらい離れて寝ている。腕時計もある。このルートは山賊も出るというウワサだった。そのオヤジにお茶を貰って、アンナプルナサンクチュアリに急いだ。がんばれば、今日中に着く。

というのは、私が1982年に1人でアンナプルナをトレッキングしたときの思い出だ。当事の「ヒマラヤホテル」が、そのまま地名となり、今では3軒の立派なロッジがある。今回のトレッキングは、その時とほぼ同じコースを歩いてみた。ただしガイドとポーター付きの「殿様トレッキング」だ。書きたいことがいっぱいあるので、釣堀日記と平行して更新します。興味がある方は「柿田郎の写真館」といっしょにお楽しみ下さい。



●11/26 私が大好きなネパールだが、私が良く通った?頃、70−80年代は貧困ではあったが、旅行者の目からは平和そのものに見えた。人々は優しく親切だった。インドの旅に疲れた旅人達は、ネパール人の暖かさに触れ長期滞在していた。私もそのひとりだった。そこでヒマラヤトレッキングを知った。その頃には既にネパールの貧困層の不満が水面下で蓄積されていた・・・ということになる。

90年代に入って「マオ」という言葉を聴くようになり、赤い旗を掲げたデモ隊を見るようになった。共産党毛沢東主義派によるゲリラ活動が激しくなり、農村の貧困層が彼らの側に付いた。彼ら「マオイスト」は観光客の安全を保証したので、暫らくは観光客も減らなかったが、武装闘争は益々激しくなり役所や警察が次々に襲われ、やがてネパール軍との内戦状態に陥った。2001年の9.11テロやネパール王室惨殺事件などもあり、「ネパールはもうダメかも・・・」と思われるほどの混乱状態になった。ゼネストで都市の機能は停止、観光客は安全だといっても移動できない状態が続いた。

私も2001年を最後に行くことがなかった。昨年ネパールに偵察?行ったところ市内は緊張していたし、観光客は激減状態だったが危険は感じなかった。そして、ついに11月21日、政府と共産ゲリラ(マオイスト)の間で平和協定に調印がされた。11年間続いた内戦が終結する・・・らしい。私には、そんな簡単な話だとは思えないが。いずれにしても、平和が戻ったというネパールに一番乗り出来そうだ。



●11/23   まったく困ったことに、先日行ったカイラスは思っていたより楽で、とっても1年間の締めくくりにはならなかった。で、足りなかった分でネパールのトレッキングに行って来ることにした。昨年も2回トレッキングに行って、トータルでは1ヶ月近くヒマラヤを歩いたことになる。ずっと1年に1回くらいは海外旅行しなくっちゃ・・・だったが、2001年から子供と夏、自分のために秋、の2回となった。しかし子供も、もう付き合ってくれないので自分のために2回という「思う壺?」になった。

この伝統?を消さないためにも、なんとか今年も、もう1度ということだ。去年もだが、今年も1回目にお金をたくさん使ってしまったので、2回戦目は往復の航空券だけ買って地味に行って来る。一人旅となると慣れているネパールが楽だ。しかもヒマラヤは好きだし。11月28日成田発、12月13日帰国のキップを買った。今回はアンナプルナ山群の懐に入るトレッキングで、アンナプルナベースキャンプ、アンナプルナサンクチュアリとか言われている標高4200m地点に3泊し、夜に昼にヒマラヤを見るのが目的だ。24年前に歩いたことがある。28歳だった私は元気いっぱいで、荷物を全部自分で担ぎ、スニーカーで4200mの雪に埋もれたサンクリュアリにたどりついた。ホームレスの家?のようなシェルターでの2泊と360度雪山だらけの景色は忘れられない。

これからも、年に2回の海外旅行が出来るなら、1回は行ったことがないところ、2回目は若い時に苦労して?歩いたところへ行ってみたい。過去を懐かしむ歳になった・・・・んだなと思う。そういう訳で11月28日に出発、12月13日の朝、帰国です。帰ると直ぐにレインボーの発眼卵が入るし、1月にはアユも始まる。来年の秋までは忙しい毎日となる・・・一応、言い訳を書いておいた。



●11/21 私が大学を卒業して1年間の放浪?から帰ってから家業を手伝うようになって直ぐに親父が倒れた。55歳だった。だから私は親父と大人として仕事の話をしたことは、ほとんど無かった。親父がこの仕事を始めた経緯は聞かず終いだったが、おそらく終戦で兵役から帰ったものの仕事が無く、祖父がほとんど趣味?でやっていた養魚場みたいなところに住み着いたのが始まりではなかったかと想像している。

その後、アユやウナギ、レインボーと少しづつ養殖を手掛けていったのだが、日本経済の発展と共に養殖を取り巻く環境も整備され、元祖釣堀ブームやレインボーの輸出の好調、アユの消費の拡大に後押しされ事業を拡大していった。ドルショック、オイルショックを乗り越え、今ならフェラーリでも買えちゃいそうな勢いだったと聞く。ただ、養魚場を幾つも展開し過ぎて、手に負えなくなり苦悩していた姿も覚えている。

もちろん苦労は私の何倍もしたはずだが、いくつもの養魚場を造って事業を拡大していくのは楽しかったと思う。その絶頂で倒れた。私は相続税と自分の能力に合った経営規模に縮小するのに追われ続けた。明日は親父の23回忌だ。



●11/19 まったく儲からない淡水養殖業界なのだが、この危機を乗り越える戦略も無いまま又大変な事態を迎えている。何やら魚粉の高騰でエサ(配合飼料)の価格が大幅に上がると言うのだ。もちろん過去50年間、定期的?に値上げはあったのだが、その幅は5−10%、しかも値上げ後値崩れしてしまう・・・という、いかにも我々業界らしい場面もあったのだが、どうも今回の値上げはマジで大変なことになりそうなのだ。春に値上げしたばかりなのに、ここで再度の値上げ、しかもその幅は20%を超えるとか。つまり今年1年間で30%位値上がりすることになる。

国内でトラウトやアユのエサを作っているのは5社くらいしかないのだが、値上げの時には本当に仲良く「談合したかのように」一斉値上げとなる。営業マンは「魚粉が上がるからしょうがない、どこも同じ様に上がります・・・」と言いながらも「A社は何時から値上げって言ってますか?、いくら位?」と探りを入れて来る。過去には抜け駆けして一気にシェアを拡大しようとする「偉いエサ屋]」も稀にいたのだが、今回は団結力も強いようだ。春に続きこの値上げが実行されると、例えばレインボーの原価は15%上昇することになる。生産原価の半分以上がエサ代であるから大袈裟な話ではない。



●10/26 定休日の今日は1,2,3号池の掃除をしたのだが、14時半に終わったので、昨日のリベンジで鷲頭山に再挑戦した。今回は日守山の近く、海とは反対側からだ。最後に登ったのは1999年、姪をネパールトレッキングに連れて行くのに練習のために登った。ここ2日間降った雨のため、登山道が滑って登り難かったが35分で頂上に着いた。昔から「鷲頭山は1時間」と言われていたので優秀だ。どうも、4000m以上もあるチベットに3週間もいたので結果的に「高所トレーニング」をしたことになっているのか、そんなハイペースで登っても余り息切れもしなかった。

いつ頃からか・・・多分12−13年前だと思うが・・・この辺りの山が「沼津アルプス」と呼ばれるようになった。最近では、すっかり有名になってしまい、ネットで検索すると人気の程が判る。最高峰の鷲頭山が492mだから「何てことは無いだろう・・・」と思うかもしれないが、実際には充分に歩き出がある。この連山はトンネルが無かった時代には海側の集落との行き来が、かなりあったようで峠を越える登山道がいくつかある。峠からは海が直ぐ下に見え、なかなか良い。山歩きが好きな方は、KFSのついでにちょっと歩いてみる・・・という手もある。



●10/25 2日続けて夜中に降った雨が空気中のチリを洗い落としたのか、今朝は空気が爽やかに澄んでいた。こりゃ眺めがいいぞ・・・とKFSへ向かう途中で日守山に登ってみた。今日はバーニーズノロマウンテンドッグを置いて来たので一気に登れた、往復25分だ。KFSもヒマだったので帰りは「沼津アルプス」の主峰「鷲頭山」398mに登ってみることにした。400mに満たないといっても、標高10m位から登るので、けっこうキツい。

東側からは何回か登ったことがあるのだが、今日は海岸側から登ることにした。海から一気に立ち上がる鷲頭山への登りは峠に出るまで急坂が続く。近くに住んでいるので「沼津アルプス」のイメージは頭に入っている・・・つもりだった。峠に出て尾根道を南に上り始めて15分「なんだ簡単に頂上に着いたぞ・・・」。証拠写真を・・・ありゃ、ここって「大平山352m」って書いてあるぞ?? 峠まで下って案内札を見たら鷲頭山は反対側だ。うーん、隣の山に登っちまったか・・・鷲頭山に登り返そうかと思ったが、16時を過ぎていたし、山を甘くみると「迷惑な中高年の山登り・・・」になってしまいそうなので素直に降りた。

沼津アルプスは交通の便が良いので、地元よりもちょっと遠くのヒトにも人気がある。登山口やコースをネットで調べて、もう一度登ってみよう。



●10/24 私がチベットに行く前に、今年のアユは全て終わった・・・と書いたような気もするが、実は一池だけ残っていた。毎年、子持ちアユの注文があるので、メスだけを選って飼っていた池だ。それを昨日、全部取り上げて冷凍した。といっても数百kgだったので午前中で作業は終了した。子持ちアユは高く売れるから、たくさん作れば良いようなものだが、メスが卵をいっぱい持つということは、オスも成熟して痩せこけてしまうということだ。子持ちになったメスが80%高く売れても、真っ黒に痩せこけたオスがタダ同然になってしまったのでは意味が無い。

そこで、アユがまだ若い?8月の内にオスとメスを選別して別々に飼い、オスの池には電照をして成熟を遅らせる。そうすればオスもメスも高く売れる・・・ことは判っているのだが、夏はアユやレインボーの選別出荷作業が忙しくて、オスメスの選別まで手が回らない。で、毎年「今年こそは本気でやるぞ・・・」と思いながら30年が経ってしまった。結局、今年も「近所で売れる分」しか作れなかった。もちろん、今も「来年は本気でやるぞ」って思っている。

子持ちアユ(冷凍)を入用の方は、お安く販売しています。
1kgづつ箱に入っています。アユの大きさによって7-18匹。2500円。



●10/18 今日、5月に発眼卵で購入したロットの大小選別をした。韮山の養魚場で、実験的に通常よりも長期間、高温養殖をしたレインボーの稚魚だ。選別後、大きいヤツは30g13cm位にまで育っていた。15万匹の平均は20gといったところか。一番育ちが悪い?のは10gくらい。大きく育ったヤツは先頭に立って、エサをがんがん食べるので加速度的に大きく育つ。小さいヤツは反対に、なかなかエサを取れないので日に日にその差が開いてしまう。

そのままにしておくと、小さくて弱い固体は環境の悪い排水付近に追いやられ痩せて死んでしまったりする。もちろんデカいヤツに食べられてしまうことも珍しくない。それで大小選別をして別々の池で飼うわけだ。通常は大きいグループを下流の池に移す。大きいヤツの方が酸欠や水の汚れに強いからだ。そして大きいヤツには大きいペレット、小さいヤツには小さいペレットを与える。これを繰り返すことによって効率や歩留まりが向上するし、在庫の把握も正確に出来る。

重要な仕事ではあるが、なかなか重労働だし、これから寒くなると辛い。同じ30万匹のレインボーを選別するにしても、稚魚期なら絶対重量が少ないので簡単だが、例えば釣堀サイズの300gで選別しようとしたら何十倍もの重量になってしまう。稚魚期に丁寧に選別しておいて、その後バラつきが出ないように養殖していく技術も必要だ。



●10/18  「子供の心を持った大人」っていうのは褒め言葉か? 先日ラジオで面白い話を聞いた。話していたのは精神分析の先生だ。子供っていうのはムシを簡単に踏み潰すことが出来る残酷性を持つ。何か欲しいモノがあると、「買ってくれないと学校に行かない」「勉強しない」とか、将来自分が困るだろうことを取引材料にする。大人が本気で抵抗しないことを知っていて、ケンカ?を売って来る。北朝鮮の将軍様は「ミサイルを持った子供」だというのである。子供相手に大人は本気でケンカは出来ないから、通常は大人が負けてやって収まる・・・はずだ。しかし最近では、大人が子供を殺して川に放り投げたり、子供が家族を焼き殺すような恐ろしい事件が相次ぐ。

実は、これは数ヶ月前に北朝鮮がミサイルを発射した時に聞いたものだ。「ミサイルを持った子供」が実は核も持っていて、「使い方も知ってんだ・・・ほら怖いだろう」とちょっと火を点けた・・・のか? 将軍様としては意外に反応が小さかったのか、もう1回やってみようかな?と考えてるらしい。2回目を爆発させたとしても、アメリカが本気にならなければ大した変化は無いだろうけど、どこへ飛んで行くか判らないミサイルと核が組み合わさったモノを子供が手にしたら怖い。将軍様が北朝鮮の国民の幸せを考えているとは思えないから、自分の地位や財産を守るためなんだろうけど、石油が出ない分、強国が干渉を避けるからイラクよりも手強いか。まだまだ将軍様の「だだ」は続く・・・のか? もしかしたら、もっと変な?大人や子供が登場してケリをつけてしまうような気もする。



●10/15 柿田郎のチベット旅行記 その16、最終回

サンダーバード3号(知らないか・・・?)と星空の写真を見て頂けただろうか。あれを写したのはツァンダという3600m位の超僻地の村だ。通りが1本あり両側に商店や招待所がある。サトレジ川に突き当たったところに広場と寺院がある。サンダーバードに見えるのがそれだ。昼間、その辺りを散歩した時に、あの写真を撮ろうと思った。いざ夜になって、そこへ行くと、まったく明りが無く真の闇だ。小さなLEDを頼りに三脚を担いで歩いた。寺院の裏は50m位の絶壁になっていて、はるか下をサトレジ川が流れている。裏から撮れば村の明りや急峻な山も写るのだが、そちら側に回って、もし「悪いヤツ」に遭遇してしまったらヤバい。

いずれにしても、こんな村の夜の散歩?を長時間するのは危険だ。デジカメの感度を上げて3分露出で4−5枚撮った。その間に若い男女が数人「お題目」を唱えながら、その寺院を回っていたので何だか心強かった。タシデレ・・・なんて挨拶をして去って行った直後に事件は起きた。いきなり目の前が光った。視界はゼロ・・・真っ白。サーチライトを正面から当てられたのだ。な・・なんだ? 一応、両手を上げた。中国語で何か言われたら、どうしよう・・・なんてビビっていたが、何も起きない。

時間にしたら30秒位だろうか。何の指示もないのでライトに向かって光の中を歩いて近づいた。横に移動すると撃たれる?と思ったからだ。で、その光源に着いてみたら。ただのおっちゃんが居ただけだった。単に寺院をライトアップしただけらしい。なんで、こんな夜中に急に・・・とも思ったが、点灯が遅かったのでサンダーバードの写真が撮れたということだ。



●10/11   柿田郎のチベット旅行記 その15

中国は広いが北京時間で統一されていて、日本との時差は1時間でしかない。 チベットもウイグルも中国領である・・・当たり前だが。カシュガルに至っては、北京から西へ3000kmも離れているのに公的?建前?は北京時間を採用している。私が行った9月には、朝7時半位に東の空が白み始め、9時頃にようやく朝といった感じになる。同じ経度のインドやパキスタンは3−4時間の時差をとっているのだから、常識的に考えれば生活には不便だ。アメリカやロシアの様に国内にも時差があるのも日本に住んでいると面倒臭そうだが、中国のそれも滞在してみると困ってしまう。

何となく習慣的に起床は6ー7時、朝ご飯は7ー8時となってしまうのだが、いずれにしても真っ暗だ。夜は9時過ぎまで明るい。健康的な?旅なので早寝早起きが基本だが、そうすると明るいうちに寝て、暗いうちに起きる・・・というバイオリズムに逆らう生活になっていしまう。カシュガルは、その歪?の極みの地域だ。しかし、そこに住んでいる人々は勝手にペキン時間に対して時差を作っているようだ。朝は7時頃では、明りが点いている家は少ないし、クルマも静かだ。夜は10時過ぎまで賑やかだ。どうも2時間くらいの時差を作ってしまっているようにも思えたが本当のことは判らない。もちろん、飛行機やバスは10時発とあればペキン時間の10時に出発する。

毎日ランクルで長距離を走るのだが、故障やスタックなどアクシデントを考慮して、朝早く出発しようということになっても、明るくならないと危険なので結局9時に出発できれば上出来だ。順応性に乏しい私は、ずっと「朝が遅過ぎる・・・」と日本人をしていた。次の宿泊地に着くのは18−19時、「もう晩酌の時間だ・・・」。すっかりリズムが狂ってしまった・・・これも時差ボケって言うのかな?



●10/9 柿田郎のチベット旅行記 その14

河口慧海(かわぐちえかい)をご存知だろうか? 1899年に仏教の真の教えを得るために、当時鎖国状態にあったチベットへ潜入したお坊さんだ。私が初めてヒマラヤを歩いた1978年、チベットに通じるカリガンダキ(川)沿いのトレッキングをしていて、初めて彼の「チベット旅行記」なる本の存在を知った。ひとりで歩き始めて5日目にガンサという集落に着いた。当時彼がチベット潜入を試みて、暫らくチベット語を勉強するために滞在していた集落だ。当時は少なかったガイドブックに、そんなことが書かれていて興味を持った。

1年ぶりに日本に帰って、最初に読んだ本が「河口慧海のチベット旅行記」だった。分厚い本で漢字が多く?宗教用語がいっぱい出てくるので、なかなかとっつき難い本だったが、読み始めたら止まらなくなった。31歳で日本を出てチベットに侵入、アンナプルナの奥からチベットに侵入したらしいが、いまだに詳しいルートは解明されていない。チベット人になりすましラサに滞在したが、数年後に日本人であることがバレてしまい危うくチベットを脱出した。出発から帰国まで6年掛かっている。内容は、すっかり忘れてしまったが、ヒマラヤ越えの凄まじさと、チベット高原をラサまで歩く旅、途中カイラス巡礼もしているし、もう一度読み返したい。今では、その足跡を記すものは何も残っていない。ラサでは彼が滞在していた「セラ寺」にも行ったが、もちろん何も無かった。

今回、私の日記の題名は「カイラス巡礼して聖人になろう」なんていうのにしようかと考えていたのだが、尊敬すべき河口慧海様に申し訳ないので、もっと失礼かとも思ったが「チベット旅行記」をパクらせて頂いた。そうそう、2000年に川口慧海の記念館が出来たと聞いたので、アンナプルナ1周トレッキングの途中に寄ったら見事に定休日。1泊しようかとも考えたが、村人に聞いたら「多分、明日は開く・・・だろう」という返事だったので先を急いでしまった。最近は道路が近くまで開通したらしく、終点から2日歩けば行けるらしい。



●10/9 柿田郎のチベット旅行記、その13

アジアを旅し続けると大河に出会う。私は、その中でも特にインダス川が好きだ。チベット高原に源を発し、昔のままのチベット文化が残るラダック地方を流れ、カラコルムの高峰からの氷河の水を集めて大河となり、流域には人類4大文明発祥の地を育み、アラビア海に注ぐ。若い頃からインダス川とは、いろんな場所で巡りあった・・・私にとっては全長3000kmの「聖なる河」だ。

NHKスペシャルで「氷の回廊」というのが放映されていた・・・録画された方は是非貸して下さい・・・インダス川が凍りつく厳冬期に、その氷の上を歩いて下流の町まで産物を売りに行く民族の話だ。道路が無いから、凍ったインダスの上を歩くしかないのだ。今回我々は、更にその上流でインダスを渡ることになった。正しく私にとって「聖なるインダスの源流」に会えるのだ。

チベット高原を横断するには我々が通ったインドネパールとの国境沿いの新蔵公路と、チャンタン高原を横断するルートがある。その2本の道が合流するところに「アリ」という比較的大きな町があり、そこを源流に限りなく近いインダス川が流れている。その町に着くや否や、インダスに向かって歩いた。町の中央を流れるインダスに近づくにつれ「何だか臭いぞ・・・」、いやな予感は的中。護岸をコンクリートで固められたインダスがそこにあり、河川敷はゴミだらけ、両側の散歩道はなんと「人糞」だらけなのだ。

町の端まで歩けば釣りが出来るかもしれない・・・という密かな期待は見事にスレでラインブレーク。汚くて川面に近づけない状況であった。しかも、ここは軍隊の町。非常に警戒が厳しく、私も到着した日に町を歩いていただけで2度も私服警官にパスポートの提示を迫られた。町の外に出て川沿いに歩くなんて行為は大いに誤解を生む。知らなきゃ良かった「インダス源流との出会い」であった。



●10/7 柿田郎のチベット旅行記  その12

チベットは中国領である・・・となれば話題はトイレだろう??
私は中国旅行は個人旅行が解禁されて直ぐ・・・83年だったかな・・・リュックを担いで香港から列車で国境を越え広州にに行ったのが最初で最後であった。当時は個人旅行が解禁されたとはいっても、中国側の受け入れ体勢が、まったく出来ておらず桂林までは辿り着いたものの悲惨な旅となった。あれ以来「中国はイヤだ」と決め付けていた私は、北京や上海にさえ行ったことがなかった。チベットへ行くのが遅くなってしまったのも、そんな理由からだ。

最近は中国も近代化されて旅行も快適になった・・・と聞かされていた。それは都会だけの話だろうということは、もちろん想像がついていた。そうはいってもチベットだって、ずいぶん近代化が進んでいるはずだ。招待所のトイレは幅深さ共30cm位の溝が直線に掘られ、腰までの板で3つに仕切られたものが主流だった。男女の仕切りはしっかりしているが、その溝は繋がっている。当然ドアーは無い。トイレの建物に入れば、何人が用をたしているかが瞬間的に判る合理的な作りだ。チベットの場合、先に書いたように、この構造に加え「何時でも何処でも水が不足」ということを加味すれば、トイレがどんな状況か想像がつくだろう。しかもトイレの建物は別棟になっていて寒い夜は辛い・・・電気が無いから真っ暗だし。当然、暗くなってしまえば(明るくてもだが・・・)招待所の周りがトイレになってしまうので臭い。

私も世界中を貧乏旅行したので、汚さで比較したなら彼らは「まだまだ初心者」なのだが、ドアーが無い・・・というのは画期的であった。もっと田舎に行くと「仕切りも無い」という興味深さだそうだ。これは日本人が温泉でみんな裸で風呂に入るのと同じ感覚かもしれない。しゃがんで話してるし・・・。

ただ私が一番驚いたのは、ある飛行場のけっこう新しいトイレのドアーが無かったことだ。それは最初は付いていたと思われるドアーが、故意に撤去されたとしか思われない様相だった。飛行場のトイレは明るいし、いろんな人が利用する。いかに中国古来の文化であるにしても一考が必要だと思う・・・オリンピックも開催するようだし。



●10/6  柿田郎のチベット旅行記 その11

以前にウイグルでは「うどん」が美味い・・・というウワサを聞いたことがあった。小麦粉を練って長くして食べる・・・というのはスパゲッティーを上げるまでもなく国際的な食べ物である。私が良く行くネパールやパキスタンでも「トゥクパ」と言えば「うどん状」のものが出てくる・・・多分、それはチベット料理だと思うが。ところが、その「ウワサ」では、ウイグルのそれは日本のウドンよりも「美味いかもしれない・・・」ということだった。

今回の西チベット横断ツアーが成功すれば、ゴールはウイグル自治区のカシュガルということになる・・・うどんのメッカじゃん。しかし、その感動は突然やってきた。日本を出て19日目、今日は予定通りに行けば、ついにチベット高原を越えて下界?に降りる日だ。空気も濃くなる。ちょっとした地図には名前が出ているマザルという村?(10軒くらい)で昼飯になった。食料車は今朝ラサに向かって帰ってしまったので、その村の食堂で食べることになった。そこで突然「うどん」が出てしまったのだ・・・うーん、虚を突かれた感じだ。

小麦粉を練るところから見せてもらったが、これが日本の手打ちうどんの現場よりもスゴいのだ。小麦粉の塊から器用にチョークくらいの太さの麺?を引き出していく・・・1人前づつだ。いくらなんでも太すぎるだろ、と思ったら、それを両手に取り、びよーんびよーんと延ばし日本で見る「うどん」と同じものになった。残念ながらスープは辛味の効いたトマト味だったが、うどんは今まで食べたことがないほどの「しこしこつるつる感」だ。これは「ラグ麺」と言われている。漢字も教わったが忘れた。ラーメンのご先祖様?・・・ではないらしい。

まぁ、日本でも私が行ったことが無いような本格的な店では、こんな感じなんだろうけど、それを電気も来てない人口30人くらい??の村のお店でやってるのだ。後で考えたら、面を打つ機械が無かっただけのことかなのもしれないが。その後、ウイグル自治区に3泊したのだが、毎日というか毎食の様に「ラグ麺」が出た。町の屋台でも売ってるし立ち食いも見掛ける。主食のひとつらしい。



●10/4 柿田郎のチベット旅行記 その10

写真館の答え。あのオジさんはグンカルという遺跡にあるゴンパ(寺)の扉のカギを管理しているのだ。ここに限らず、とんでもない田舎の遺跡や博物館って、常時開いてるわけではなく、お客さんが来ると何処からともなくやって来て、ドアーや門のかぎを開けながら説明してくれることが多い。ただ、すっげー田舎になってしまうと、待っててもお客さんが来ないことが多いので、カギ番がカギを持ったまま出掛けてしまい、遠い外国から来た観光客も中に入れないことは珍しくない。

今回、ここの遺跡でも旅行会社のパンフレットには「グンカル遺跡の外観を見学」「ピアン遺跡の外観を見学」というように、内部に入れないことがあっても「知らないからね・・・」と、さり気なく念を押してあった。西チベットを快適安全に旅行出来る季節は限られている。1年の内、ほんの2−3ヶ月間ではないだろうか。しかし、天候が良いということは遊牧や農業も忙しい時期だ。カギ番のオジちゃんも畑仕事に出ていたのだ。村で居所を聞き出した現地ガイドが、畑に行って連れて来たというわけだ。まあ、メシでも食って腹ごしらえしたら村の遺跡に案内してくれや・・・という会話があったと思われる。

私が、そんなカギ番を任せられたら「あのさ〜君達10人だけど、5人分の代金にしておくから切符は2枚だけ切らせて・・・」「ところでさ、内部は写真禁止だけど、どお1枚300円で・・・内緒だけど」「あ、お客さん、いいボールペン持ってるじゃん・・・いや、うちの孫がね日本製のペンを欲しがってるんだ・・・」ってなる。このオジちゃんが、そうだった・・・とは言わないことにしておこう。

ここから1日走って新蔵公路の要衝「アリ」の町へ着く。そこから先は我々はもちろん、添乗員も現地ガイドも初めてという地域に入った。



●10/3 柿田郎のチベット旅行記 その9

ロッドは一応持って行った。3ポンドラインを巻いたリールとアルフ2,7gとKFS1,6gを数個づつ。団体旅行なので川や湖があっても、そう簡単に釣りは出来ないだろうし、標高4500mではサカナがいても、そんなに大きいことは有り得ないから管釣りタックルで充分と考えた。実際には活きたサカナを見ることはなかった。ラサを流れているヤルツァンポ川にはサカナがいるらしく、季節によっては釣り人もいるとか。

一番釣りが出来る可能性が高かったのが聖なるマナワサル湖であったが、現地ガイドに釣りをしていいか尋ねたところ「中国人はやる・・・」という不思議な答えが返ってきた。文化大革命の際、チベット人の心のよりどころであった寺院は中国人によって徹底的に破壊され、多くの僧や信仰者が殺された。今でも弾圧は続いている・・・と思われる。つまり、神を信じないヤツはマナサワル湖でも釣りをする・・・ということと理解した。マナサワル湖では湖畔でキャンプをしたし、時間もけっこうあったので釣りをしようと思えば可能だったのだが、バチが当たるとイヤなので止めた。聖なるサカナが釣れちゃっても困るし。

今年の雨季は大雨で湖や川があふれ交通が混乱した。インド人が死体をマナサワル湖に捨てたからだ・・・なんて噂も立っていた。



●10/2 柿田郎のチベット旅行記 その8

カイラスから西へ向かう道路は更に悪くなる。後半になって日程が詰まって来ているのに、1日の移動距離はだんだん短くなる。なのにランクルに乗っている時間は長くなる。つまり悪路が続き平均時速が落ちてしまうからだ。渡された日程表にある宿泊地は、あくまでも順調に行けば泊まれる町?を示している。日程通りでは崖崩れ等で長時間のロスがあった場合、予定通り日本に帰られなくなってしまうこともあるだろう・・・まあ、それは楽しいのだが。

で、状況が良くて余分に走れる時には少しでも距離を稼ごう・・・という雰囲気が添乗員からだけは伝わってくる。翌日の予定は夕飯の時に伝えられるのだが、よーし明日はがんばろう・・・と参加者が張り切ったところで運転するのはチベット人。どうも、その辺りが上手く伝わっていない。朝暗いうちに出発しても給油に1時間も掛かってしまったり、ブレーキドラムまでバラして整備を始めてしまう。順調に走れた時ほど休息時間が長くなる・・・ような気がした。私は「きっと、これがチベットなんでしょ・・・」気にならないのだが。

暗くなる前にテントを張らなければならない。キャンプ場なんかは、もちろん無いし、ここらがキャンプに適してるっていう情報も少ないらしい。走りながら水場に近い場所を探す。小さな村の下流にキャンプしたことがあった。人口が100人足らずかと思われるような村だったが、生活排水は全て小川へ垂れ流しだ。その小川の水で炊事をしようというのだから、さすがに私も「いくらチベットでも、そりゃ無いだろう・・・泡立ってるじゃん」。職業柄、水を見る目?はある。なんだかトロみがあるぞ、ネトネトした黄色や紫の藻だらけだし。なんだよ、ヒツジの大群が水飲みに来てるし・・・ありゃりゃウンコしてる。

スタッフは何も気にならないらしく、食器を洗って米も炊き始めた。お茶も出してくれる。標高4500m、水は70℃で沸騰してしまうぞ。皆、平気で食ってるので私も食べたが、顔は洗えなかった。



●10/1 柿田郎のチベット旅行記 その7

団体旅行といっても、今回の様な旅行は普通のものとは、ちょっと違う。都会でのホテルは予約されているが、途中の招待所は予約という観念は余り無いらしい。多分、通信の手段や予約しても、その日にそこに着ける可能性が少ないからではないかと思う。感覚的には山小屋に近いようだ。だから空いていれば1人1部屋も有り得るが、混んでいれば順番に詰めて相部屋となる。4人部屋を2人で占領していると、後から来た「いろんな国の人」と緊急的に相部屋になってしまうので、混みそうな時は最初から日本人同士でベッドを埋めてしまう・・・ということらしい。私としては「わけの判らないヤツら?」と一緒になってしまうのも旅の楽しみだと思うのだが。

更に田舎に行くと、普通の日本人には「我慢出来ない施設」であることが多いらしく、適当なところでキャンプとなる。私は大地をダイレクトに感じられるキャンプが好きなので毎日キャンプだったらいいのにな・・・と期待していたが、実際にはテントの設営や料理、あるいは事故などを考慮してか「なるべくなら招待所」という今回の意向は残念であった。私が参加を検討していたもう一つの旅行会社は「全行程テント泊」を謳っていた。こんなところをランクルで旅したい人間はキャンプの楽しさを知っているだろう・・・ということを関係者が理解しているということだ。

実は、その旅行会社はここ数年私が利用している小さな旅行会社であったのだが、「表向き」の日程や価格では、今回初めて使った「有名会社」の方が「お得感」が大きかった。しかし、旅行に対するポリシーみたいなものは、いつも利用している「若い会社」の方が私には合っていたかもしれない。どちらが良いとか悪いとかということでは無く、多様化といわれる時代にあって、小さな会社程、自社のポリシーをはっきりとさせ、消費者はそれを賢く選択する技を身につけるべきであることを感じた。

例え小さな釣堀であっても、方向性をはっきりすることで安定した集客力を得られるのではないか・・・と勉強になった。

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