| 私の養殖日記2005/10-12 | |||
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| ●12/26
21日に入荷した発眼卵だが、15,5℃の水温のKFSでは数日で孵化する。孵化直後のレインボーはヨークサック(さいのう)を付けたまま、まだまったく泳ぐことが出来ない状態、孵化盆の網の上に横たわっている。その後10日ほどするとヨークサックも吸収が進み、自力で泳ぐようになる。とは言っても、まだ小さな孵化盆の中にいるので「押しくら饅頭状態」でもあるし、エサを与えることも出来ない。 ヨークサックが大きいまま、池に放つと泳げない稚魚が1箇所に団子状態に固まってしまい、内側に入り込んでしまった稚魚は窒息死してしまう。逆にヨークサックを充分に吸収して遊泳力が備わったら・・・と油断していると、自分でエサを食べるようになる前に栄養失調になってしまうこともある。孵化盆から出すタイミングは水温や、その後の水槽の規模などによって違うが、KFSの場合は15−17日後となっている。 ●12/24 21日にレインボーの発眼卵が来た。この時期の卵は業界では通称「冬卵」と呼ばれ、レインボーが自然に成熟する時期に採卵される一番一般的なものだ。レインボーは養殖の歴史が長く、需要も多いので1年中供給出来るように、電照して見かけの日照時間を調整して春や夏に採卵する「夏卵」というものもある。当然、冬卵の方が豊富で価格も安い。 通常、発眼卵を購入してから食用として売れるサイズ(20−25cm)まで育つのに1年くらい掛かる。管釣り業界では「トラウトは冬」というイメージがあるが、実際にレインボーが売れるのは3月から8月だ。1年後の冬に、そのサイズに育っても売れない。だから4−8月に出来る発眼卵が人気があるわけだ。 ところがKFSでは、優れた技術!と安定した水温によって、順調にいくと7−8ヶ月で「売れるサイズ」にまで育ってしまう。だから「冬卵」で良いことになる。 ●12/22 更にボーリングの話でつまらないのだが・・・ 私達の右側のレーンでは確実に70歳を過ぎたと思われる腰が曲がったお年寄り?が一人でもくもくと投げていた。相当のキャリアらしく、ボールは超遅いのだが1番ピンを外すことはなく、スペアーも確実に取って行く。当然、我々なんか問題にならないくらいのスコアを重ねていく。その隣が、これまた一人ぼっち?の金髪外国人。左隣は学生風のカップルだ。他にも正に老若男女が、それぞれに楽しそうに投げている。 こうしてみると、ボーリングが年齢を越えて、初心者ベテランを問わず、同じ場所で一緒に楽しめるゲームであることが判る。ボールもクツもレンタルが常識となっているし、服装もそのままでいいし、なんてったって冷暖房完備だ。息子と二人で4ゲームづつ、クツ代も入れて4000円であった。約1時間半、管釣りと同じくらいか。映画もこんなものだ。決して高いものでは無いだろう。 で、なぜ、あれほどのブームが一気に衰退してしまったのか? やがては去るであろう「管釣りブーム」を少しでも永らえるためにも、その答えを知りたい。久しぶりにボーリングをやってみたら、これが面白い・・・のだが、じゃあ直ぐにでも、またやってみようと行動を起す気にはなれない。次回は1年後か? なぜだ? 1年に1回しかボーリング場に行かない私の様な人間を2回行く気にさせれば、何%かの売り上げアップになりそうだ。管釣りも同じことが言える。 ●12/21 その「狂気?のボーリングブーム」は、私がケータイ息子と同じ歳の頃、つまり中学生の時にやって来た。夕飯時の18時頃のTVには、中山律子や須藤??などの女子プロボーラーが神妙な顔でレーンに立ち、ゴールデンタイムンには芸能人によるボーリング大会が放送された。 KFS周辺にもボーリング場が次々にオープンしたが、そのどれもが週末には3時間待ちという状況が暫らく続いた。国道1号線の「すみや」の建物は、当時としては最大級の36レーンを備えたボーリング場であった。その後ブームの衰退と共にホームセンターに衣替えし、更にPCショップ「すみや」に変身したが、その「すみや」もPC部門は撤退・・・と時代の流れを反映している。そのボーリング場が出来る前は、そこは田んぼだったし、その数年前には国道自体が無く、田畑が広がっていた。 ボーリングブームの頃は私の親父も元気だった。運動なんてものとは一切縁が無かった親父だったが、TVの影響か??ボーリングだけには興味を持ったようだ。中学生だった私にはボーリングをやるような小遣いは無いから、親父が夕飯の時に「ボーリングに行くべ・・」と言い出すのを楽しみにしていた。だからボーリングといえば、たいてい親父と一緒だったことになる。親父は仕事が忙しかったし、若くして倒れてしまったので、一緒に遊ぶ?という機会は、ほとんど無かった。いいタイミングでボーリングブームが到来したわけだ。 ●12/19 昨日は我が家のケータイ息子とボーリングに行った。4回戦で1回でも息子が勝てば、1万円分の買い物付きという親心勝負だ。もちろん負けてやろうなんて気は更々無いのだが。30数年前のボーリングブームの時にはよく行ったが、その後は1年に1回行くかどうかだ。当然マイボールを持つほど熱心ではなかった上に、自己流だから、ある程度からの進化はなかった。 ケータイ息子の方は私とも2−3回行ったが、最近では友人とも行くこともあるらしい。成長著しい中学3年生、しかもバスケ部の部長だから、いきなり上達している可能性もある、油断は出来ない。ところが終わってみれば、私の全勝、それも笑っちゃう程の大差だ。1回戦目こそ、私も2年ぶりくらいのボーリングだったので120点しか出せなかったが、その後の3回戦はアベレージ160と人生において、めったにない好調ぶりだった。モモヒキを履いたままで暑かった。モモヒキを脱げば、あと10点はいったぞ。 気分が良かったので、息子には「参加賞」として1000円の買い物に付き合ってやった。 4回戦のトータルでオヤジに勝てたらPCを買ってやるぞ・・・と約束しても数年は楽しめそうだ。 ●12/18 何処かにも書いたが、去年の今頃買ったキャノンのコンパクトデジカメをネパールに持って行ったところ、3日にストロボが発光しなくなってしまった。KFSで水中写真を撮ろうと思って、防水ケースと一緒に買ったものだ。すれすれで保障期間中だったので、販売店を通じて修理に出した。実はこのカメラ、その前にもレンズカバーが壊れて修理から戻って来たばかりだった。なんだか、クレーマーみたいでイヤだったのだが壊れたことは事実だ。 10日ほどして、カメラ屋さんから電話。修理部品の調達に時間が掛かるので、何時治るか判らない。同等の最新型と交換しましょうか・・・イクシ700でどうか、ということだ。おお、人気の最新型じゃん、ラッキー! 危うく、お願いしますと返事をしそうになったが、考えてみれば、新しいデジカメにすると、また専用の防水ケースを買わなくちゃなんない。2万円以上の出費となる。 で、有難い話をお断りして修理が出来るのを待つことにした。デジカメって故障が多いような気がするのだが、どうなんだろう。激しいモデルチェンジと安売り競争で淘汰されつつあるメーカーもあるし、修理品がたくさん戻ってくれば確実に経費の上乗せになる。どうせ売れ残るのだから新品で保障した方が損が無いということもあるのだろう・・・か。それにしても、もう1ヶ月になるぞ。 ●12/9 先にも書いたが、ネパールではマオイストと呼ばれる自称「共産ゲリラ」が暴れ回っている。国民が貧乏のドン底にあるのに国際援助などの大金が国民のために使われずに、王様や政治家達が着服してしまっていることが国民に判ってしまったことなどが原因だが、特に西部では警察官が襲われ多くの死者を出している。数年前には前国王、夫人、側近が長男の銃の乱射によって殺されるというショッキングな事件も起こり、平和なネパールが一気に血生臭くなってしまった。当然、観光客は激減、ネパール経済は大きな打撃を受けた。 トレッキングに出ても、マオイストが観光客から通行料と称して金を要求することが当たり前のように起きている。彼らの態度は紳士的で金額は1000−3000円程なので、誰も逆らうことなく支払うためか、それによる傷害事件は聞かない。面白いことに彼らは領収書を発行して、「また脅かされるようなことがあったら、この領収書を見せれば通してくれるはずだ」と言うとのこと。私は幸いなことに遭遇したことが無い。飛行場があるルクラ周辺は兵隊による警備が厳しく、18時30分以降は外出禁止。狙撃兵が要所に立ち、動くものはとりあえず撃つぞ・・・という通達がロッジ内にも張られていた。 カトマンズに通じる道路は至るところで検問が行われ、乗り合いバスの乗客も皆降ろされチェックされる。市内も同様に厳戒態勢が敷かれている。かつてはトレッキングで、どんな田舎の農家の立ち寄っても国王夫妻の写真だけは飾られていた。聞いた話では、その写真は無料で配られていた。彼らは貧乏で部屋に飾るもの自体が少ないから何だか知らないままに、それを飾っていたし私たちはそれを見て「国王夫妻は、こんな貧乏なヒトにまで慕われているんだ・・・」と思っていた。教育や情報が多少なりとも豊かになり、そのウソに気づき始めたところにマオイストの出現。ネパール政府はマオイストを徹底的に排除すると公言している。しかし、政治家や王室に搾取し続けられた国民の不満は根深い。ネパールに平和が戻ることはあるのだろうか。 ●12/7 カトマンズにタメルと呼ばれている地区がある。70年代中頃年頃から外国人旅行者相手のホテルやレストランが出来始め、2000年頃には白人が溢れてネパール人が歩いていると不思議にさえ感じるようになった。中心の一角は土産者屋、レストラン、旅行会社、インターネットカフェ、両替商、怪しい店?ばかりで、看板も年々派出になりネパールの名物?的空間になった。当然、そこに住んでいたネパール人相手に店をやっていた方もいたのだが、おそらく日本でいうところのバブルと地上げ?の様な状態になったのだろう、99%がツーリスト相手のお店になってしまった。そうなると我々としても便利なので、皆タメルに宿をとることになり、ますますタメル地区の外国化?が進んだ。 ただ、そんな中にも昔のまま、ネパール人相手の商売をしている店が何軒かあって、私も行く度に「おお、まだ健在か・・・」と何となく安心してしまう。その貴重な店のひとつにモモ(ぎょうざ)屋があり、私が初めてネパールを訪れた時から繁盛していた。毎回、立ち寄るのだが相変わらずメニューもなく英語も通じない。とはいっても出来るのはベジモモ(野菜ぎょうざ)とバフモモ(水牛ぎょうざ)の2種類しかないので問題はない。8個に辛いタレがかかって40円と50円だ。最近ネパールは政情不安で外国人旅行者が減ってしまい、タメル地区のホテルやレストランは大打撃を受けているが、この店は昔と変わらず一日中大繁盛だった。何だか、ちょっと身につまされる。 ●12/6 最近、養殖日記etcと釣堀日記の両方を毎日アップしている。これは、ネパールの旅行記ばかりアップしているとバカじゃないかと思われるから・・ということもあるが、先日買ったPCが、まだ物珍しいからという理由もある。ノートだから何処でも更新出来るし、ディスプレーも綺麗だ。なんてったってノートPCを持ち歩く・・・KFSにだけだが・・・なんて「出来るヤツ」になったみたいで気分がいいじゃないか・・・まさしくオヤジ感覚だ。もともと日記を書く習慣が無かったのだが、こういう形で旅行記を書いておくと、後でPCをいじりながら昔のを読み返したりして楽しい。他人に読んでもらうために判り易く書く、その時点で旅を振り返って記憶を辿っているわけだから、後で自分で読み返しても判り易い。 そうそう、そういう理由でトレッキングエージェントの社長さんの自宅にディナーに招待されたのだが、伺ってみれば招かれたのは私一人で彼の家族に混じっての食事となった。最初にチベッタンティーが出る。好き嫌いが少ない私が苦手なもののひとつだ。紅茶にギーと呼ばれるヤギのバターと塩を入れた飲み物だ。お茶と思わずスープだと思って飲めば美味しい・・・と言うが、それにしてはしょっぱ過ぎる。黙っていると次々に注がれてしまうので、1杯だけ飲んで、はっきり断る様にしている。 ネパールでは良く食事に招待されるが、どこの家でもメインは野菜カレーと豆(ダル)スープだ。お金持ちの家では、それにフライドチキンやモモ(ぎょうざ)、野菜炒め、肉炒め、ソーゼージやハムが出る。酒は地酒のロキシーやチャン、ストローで飲むトゥンバなどがあるが、今回は誰も飲まないので私だけがビールを飲んでいた。17歳と8歳の子供がいるのだが、高そうな服を着てるし、立派な?教育も受けているのでカトマンズ市内やトレッキング中に会うガキ・・失礼、子供とはまったく違う。現金収入を得られる仕事が少ないネパールにあって、観光事業で成功したら大(小)金持ち、という現実を見せ付けられたような気がする。これから、ますます貧富の差が大きくなりそうだ。 ●12/5 今回のヒマラヤトレッキングではカトマンズのトレッキングエージェントに、何から何まで任せた。ヨーロッパ人がたくさん利用しているところだから?値段的には安かった。カトマンズのホテル、ルクラの往復ヒコーキ、ガイドとポーター、山小屋と食事代、全て込みで12万円くらいだ。これにネパール往復の飛行機代が必要となる。もちろん、もっと安く上げようと思えば方法はいくらでもある。昔のようにがんばれば、7−8万円くらいで済む計算となる。これを日本の旅行会社に任せると、同じ内容でも15万円ほど高い。その差額は信頼とサービス代ということか。 初めて利用したエージェントだったが、なぜか社長さん宅のディナーに招待された。白人も大勢来るだろうからイヤだった??ので、お断りしたのだがホテルまで迎えに来られたので、おじゃました。鉄筋コンクリート製4階建ての立派なお宅で、1階が事務所で、その上に家族や親戚と住んでいるようだ。社長さんは、なかなか真面目で仕事熱心、食事中も電話やら来客で忙しそうだった。彼は現在、ナムチェバザールの裏山?標高4500mのところにホテルを建設中で現場との往復も大変だ。このホテルが完成すると世界一高所のホテルということになるらしく、日本人経営のエベレストビューホテルを遥か下に見下ろすことになる。 ●12/4 もう一箇所の養魚場も見学したのだが、こちらは幹線道路に面していてドライブイン?も併設している。看板には「レインボートラウト」と書かれていた。養殖池の設備は先のところと、まったく同じで、これがネパールのスタンダードとして民間に推薦されている規模かとさえ思われた。 さて昼食時ともなっていたので、そこのレストランでニジマス定食でも食べようということになった。こういうところで食事をする時には、私は必ず食材を見せて貰う。日本と違って食材の保管が怪しいので、酷い目に会うことがあるからだ。食事に提供されるニジマスは案の条、冷凍モノだった。しかも家庭用の冷蔵庫の冷凍室にラップもされずに保管?されていた。運ちゃんに「おごるけど君も食べる・・?」と聞いたら、その冷凍魚を見て首を振る。それじゃぁ、日本人も食わんぞ。 ネパールではレインボーは高級魚だ。カトマンズ市内のレストランでも時々メニューにある。私も後学のために時々食べるのだが、考えてみれば市内のレストランだからといって保管方法が適切だとは思えない。どうせ同じことなら食べてみれば良かったか。その養魚場でレインボーの価格を聞いてみたが、900−1000円/kgとのこと。生産量からいって、全てが小売感覚だと思われるがネパールでは超高級食材だ。ちなみにチキンや水牛の肉は150円/kgくらいだ。 ●12/3 カトマンズで時間があったので養魚場の見学に行くことにした。ネパールには10回ほど来ているが養魚場見学は初めてだ。かつて大きな湖にある日本人が指導している大掛かりな養魚場に行ったが、「私は日本で養魚場を経営している。ちょっと見せて・・・」と言ったら断られた。サンダル履きだったし、トレッキングから帰ってきてヨレヨレだったので怪しまれたらしい。その後、チャンスは何回かあったが何となく行く気にはなれなかった。 カトマンズからクルマで1−2時間のところに最近、民間の養魚場が出来たというのでタクシーで行った。ウワサではレインボーを使った食事も出来るらしい。カトマンズの喧騒を抜けて2時間ほど走るとカカニというヒマラヤのビューポイントに着く。その途中に養魚場はあった。道路から遥か下にコンクリート製の池が確認出来る。「やっぱり、歩くの・・?」当然?だが道路は無い。ちょうど日守山くらいの標高差を下ると1,5mx7m程の養殖池が2つと、その半分の大きさの池が2つある養魚場に着いた。 用水は上流で湧いている10℃くらいの水だが、水量は1トン/毎分くらいしか無い・・・KFSのストックヤードくらい。稚魚は数10km離れた孵化設備が整った養魚場から購入するとのこと。年間生産量は300−400kg・・・KFSの1週間の放流量の80%くらい・・・だそうだ。 ●12/2 ヒマラヤの玄関、カトマンズは意外なことに空気が悪い。標高は1400mあるが盆地状で空気が淀み易い。私が始めてカトマンズを訪れた1978年には、なんて静かで美しい街なんだろう・・・と思ったのだが、今ではクルマが増え排気ガスが酷い。人口も増え町も汚くなってしまった。私が何番目かに好きだった街が、わずか10数年で、なるべくなら「行きたくない街」になってしまった。それでも、ここ何年かは怠慢なネパール政府も事態の深刻さに気がついたのか、強烈な排気ガスを吐き出す3輪タクシーを締め出し、乗り合いマイクロバスもバッテリー駆動になった。 1970年代のカトマンズは、オランダのアムステルダム、インドのゴアと並んで世界の3大ヒッピーの聖地だった。世界中から若者が集まり、安いドミトリーの宿に何ヶ月も泊まっていた。街には背が高く髪が背中まである「変な白人」が歩き、レストランは夜ともなれば外までマリファナの匂いが漏れて来ていた。その頃の連中が私のように20年以上経って戻って来たのか?と思わせる程、中高年のカップルが多い。多くがリュックを背負っているが、バックパッカーというよりはトレッキングに来ているといった感じだ。もちろん、ドラッグはマイナーとなった。 日本の若者は少ない。若者で目立つのは中国人や韓国人が多い。かつては見られなかった韓国語や中国語?で書かれた看板も目に付く。前にも書いたようにアメリカ人はいない。カトマンズの街を歩くと何となく世界情勢が伝わってくる。 ●12/1 ギャルツェン君の仕事は私をルクラまで連れて帰り、カトマンズ行きのヒコーキに乗せてしまえば、それで終わり・・・のはずだった。実は彼の両親は離婚して母親はカトマンズにいるということだった。前日になって突然親方から休みが出てギャルツエン君もカトマンズに帰ることになった。で、一緒にヒコーキに乗ることになったのだが当日は朝から天気が悪く、カトマンズからのヒコーキがなかなかやって来ない。 だいたい4機くらいが編隊で飛んで来る。どのヒコーキが、どういうふうに飛んでくるかは決まっていない。乗り入れているヒコーキ会社は5社ほどあり、どこの会社のヒコーキが何機飛んで来るかで誰が帰れるかが決まる。私はイエティ(雪男)航空の2番のボーディングパスを持っていた。つまりイエティのヒコーキが2機飛んでくれば乗れる・・・ということだ。なぜかギャルツェンは1番のパスだった。7時半には飛行場に行き「朝食はカトマンズのジャーマンカフェだな」なんて言っていたがヒコーキは来ない。 座るところも無い寒い飛行場で西の空を見ながら延々と待つ。「昼メシはタメルの古里(日本食)だな・・・」14時になってもヒコーキは来ない。乗れる乗れないよりも究極的空腹だ。突然、待合室がどよめく。○○航空が1機、イエティが1機、今カトマンズを出た、後は全てキャンセル!!の放送。私のパスは2番だから乗れないじゃん・・・ヒコーキが来た。ギャルツェンが私に1番と書かれたボーディングパスをよこした。私はありがたく受け取り、ギャルツェンに私が泊まる予定のホテルを告げ、ヒコーキに乗った。 今回はガイドと客だったけど、次に会う時は友達だ・・・というのはトレッキングではよく交わされる別れの挨拶だ。 ●11/30 今回、私のガイドをしてくれたのはギャルツェン君20歳だ。ネパール英語を話す。22日間トレッキングガイドをしてルクラに戻り、その日の昼から再び私のガイドに就くという働き者だ。まだ若いので、あまり気が利かないことが多いのだが、一生懸命なのは判る。酒もタバコもやらないことは有難かった。ヒマラヤを歩くといっても私の様な「山は素人」が多い。道案内だけではなく、ヒマラヤのガイドの仕事は多い。人気のガイドともなれば、お客さんから指名されるし給料以外の高額のチップが期待できる。外国のトレッカーと一緒に生活するのだから知識も増えるし、ことばや習慣も覚える。ネパールでは、けっこう「かっこいい仕事」だと思う。 そのギャルツェン君は飛行場のあるルクラの近くに住んでいる。当然、遊びに行こう・・・ということになった。私が得意なガイドのお宅訪問だ。メインルートを外れて30分ほど歩くと彼の家はあった。ちょっと都会の山?に住むネパール人の平均的な住まいだ。の間に囲炉裏があり、ベッド兼ソファー?がある。台所の食器類は富の象徴だから綺麗に磨かれている。しかし家の中で一日中、日を燃やしているから部屋全体はススで黒くなってしまっている。質素だが仏壇は必ずある。周りには家族や偉いお坊さんの写真が一緒に飾られている。 もちろん、お宅訪問となれば手ぶらじゃ失礼だ。といって日本からの土産は何も持っていない。途中の雑貨屋に寄った。ネパールの農民は現金収入があまり無いので、店というものもあまり意味が無い。ましてや一番高価なモノがビールだったりするので、ギャルツェンに「何でも持てるだけ買ってもいいぞ!」と日本人マネーを披露した。買ったのは500g入りの紅茶3袋、濃縮レモン3瓶、石鹸2個、インスタントラーメン一箱、他細々したもの。全部で1700円だった。 ●11/29 5000m近い高所では、じっとしていると何でもないが早足で歩いたり、顔を洗うときに息を止めたりすると、すぐに苦しくなることで酸素が少ないことを感じる。小さな傷が治り難かったりもする。別に何てことは無いのだけれど、早く空気が濃いところでゆっくり眠りたいな・・・とは思う。だから目的の山に登ってしまうと帰り道は下りが多い上に、どんどん酸素が多くなっていくのでるんるんだ。 で、今回もゴーキョ・リに2回登ったし、明日は下界を目指すか・・・と思っていたのだが、ガイド曰く「ここまで順調だったから日が余ってしまう・・・」早くルクラに下りてもヒコーキには乗れない、ということだ。前にも書いたがゴーキョは5つの湖がある、まあ富士五湖みたいなものだが規模は小さい。ここは3番目の湖の畔、更に奥に進めばあと2つの湖がある・・・じゃあ、そこへ行ってくるか、ということになった。地図で見れば、ほとんど平らなところを歩き3−4時間の歩行で標高差も僅か250mだ。 しかし実際に歩き始めると、氷河のモレーン上のアップダウンの繰り返しの長い道のりだった。高所なので体力の消耗が激しい。景色も大したことないし「来なきゃ良かった・・・」1時間半ほどで4つ目の湖に着いた。「おお、5つ目の湖だぜ! さあ帰ろう!」と言ったのに無視された。ゴジュンバ氷河の上流部に出ると冷たい風が容赦なく吹きつけ、モレーンからの砂埃が酷い。おいおい、これで詰まんないところだったら怒るぞ!・・・やっぱり何もない池を指差して「5thレイク」だと言う。 帰りは向かい風で、更に辛い修行となった・・・腹は減るし。 明日は絶対に下りるぞ! と誓った。 ●11/28 ゴーキョ・リでは「夕焼けのエベレストの横に満月が出るだろう日」の前日に登ってしまった私だったが、山小屋に戻り夕飯を食べながら、明日は本当にもう一度登るべきか考えた。それよりゴーキョ・リから下りて来て山小屋の手前の川に置かれた飛び石を渡る際、石の上が凍っていてズルッと滑った。ガイドがすかさず私の手を掴んだ。で、その勢いで私がガイドを引っ張る形になり、私は体勢を立て直したがガイドは川に落ちた。川といっても深さは20cmくらいしか無いのだが、この高度でクツが濡れてしまったのは致命的であった。 私の代わりに川に落ちたようなものだから、翌日は半日休みをやるから何とかクツを乾かすように・・・ということになった。明日の行動は午後からだ。午後から・・・? ゴーキョ・リに登るしかないじゃん。 という理由で11月15日、満月を期して再びゴーキョ・リに登った。足は痛かったが、より高所順応が進んだためか前日よりは楽に、時間的にも速く登ることが出来た。結果的には大したことが無かったものの、あそこでもう一回登っておかなければ一生後悔したかもしれない。実は82年に来た時もフィルムを忘れ、翌日に再び登った思い出がある。いずれにしても、もうこれで下りられるぞ。明日からは空気が濃くなる一方だ・・・と、この時は思った。 ●11/27 ヒマラヤトレッキングなどと聞くと多くの方が「秘境」とか「冒険」を想像するかもしれない。当たり前だがヒマラヤは広いのでコースの選択肢は日本の山よりも多い。もちろん7000m8000mの高峰に登ろうと思ったら、それは超一級の冒険となるがそれらの山を眺めながら歩く・・・ということなら日本の山を歩くよりも遥かに簡単で快適だ。ネパールは国土も狭く、そのほとんどが山だ。資源には恵まれず産業も立ち遅れているので、ほとんどをインドや中国から輸入している。ネパールはアジアの中でも最貧国に属する。 ただ、ネパールの観光資源は凄い。日本の3分の1の面積の国だがサイ、ゾウ、トラが歩く熱帯のジャングルから、氷に閉ざされた霊山が同時に存在する。残念なことに怠慢な政府によって、この豊かな自然の下に暮らす民衆は想像を絶する貧しさだ。更に貧困が原因となって農村を中心に共産党を名乗るマオイストと呼ばれる反政府ゲリラが暗躍し、事態は悪化している。9.11テロの影響も追い討ちを掛けた。 2000年をピークとして減り続けていた観光客数も今年から増加に転じているとネパール人は言っているが、私が4年ぶりに行ってみると、正しく観光バブルが弾けた・・・といった感じで、どのホテルもレストランもがらがらであった。特に日本人とアメリカ人は極端に減った。トレッキングに出てみれば、山々の美しさは昔と変わらないし、道も山小屋もしっかり整備されて実に快適だ。ネパールは旅する者にとって、本当に素晴らしい国だと思う。国に力が無いので宣伝力が不足している。本当のネパールの魅力が世界に伝われば、たくさんのお金がネパールに落ち、貧困も少しは解消されるはずだ。 いつも世話になっている私が、微力ながらここで少し宣伝させてもらった。 ●11/26 エベレスト周辺を巡るトレッキングルートは1番人気のカラパタールを始め、ゴーキョ・リ、チュクン・リの3箇所の展望台?を巡るコースに分かれている。3週間あれば全てを回ることが出来るが、いずれも5000mをはるかに超える高さなので、それなりの覚悟が必要だ。私は1982年に荷物を全部自分で担ぎ、全てのピークに登った。その中でゴーキョ・リへの道が一番平坦で楽であったと記憶していた。当時は12−13kgのリュックを担いでいてもゴーキョへは一気に行けた。 そんなことで、1番簡単そうなゴーキョを選んだのだが、いざゴーキョへの道を歩き始めると、正に上り坂の連続。平らな道なんか無いじゃん・・・おっかしいなあ、道が変わったのか?? そうじゃない、28歳だった当時の私には、少し位の上り坂は平坦に感じていたのだ。それが今回は少しでも道が上向きに傾いていると、体が敏感にそれを捉えてしまうのだ。下りは下りで辛い。すぐにヒザの力が抜けてしまい、モモも痛くなってくる。 今回はガイドとポーターを同行させたので、私のリュックはカメラ、水や上着等6−7kgしかない。しかし考えてみれば28歳の時よりも体重が6kg以上増えている。って、ことは12kg以上の荷物を担いでいるのと同じではないのか・・・? そりゃ疲れるわけだ。 ●11/25 かつてはゴーキョピークと呼ばれていたが、最近はネパール語でゴーキョ・リと呼ばれている5350mの山が今回の目的地だ。富士山より1000mも高いところに山小屋があり、そこから標高差600mを登る。酸素は平地の半分だから苦しい。 狙っていたわけでは無かったのだが満月が近く、ゴーキョの山小屋に着いたら、その夕方に頂上に立てば、夕日に赤く染まるエベレストの横に満月が昇る・・・というチャンスに恵まれると自分で勝手に決めていた。昼飯を食べて一休み、2時から登り始める。最初の10mを登るにも息切れがする。ゴーキョ湖がどんどん小さくなっていく。5000mを越える頃から手前の山の向こうにエベレストが顔を出す。同時に岩場となって歩き難くなってくる。 平均3時間掛かると言われていたが2時間15分で頂上に立った。速い方かな・・・と思ったが5人ほどの白人に抜かれた。私が抜いたのは韓国人の二人だけだった。快晴で360度のパノラマだ。ところがなんと、まだ夕焼けには間があるエベレストの頂に月が・・・。月の出は毎日40分づつ遅くなる。そうか・・・明日がベストだったのか・・・。日が落ちると急激に寒くなる、特にこの日は風が強くて長いはできなかった。 星が輝き始めたころヘッドライトの明かりを頼りに下り始めた。そうか・・・明日だったのか。 「明日がベストね」・・・ガイドがトドメを刺すように言う。何だよ・・・明日、もう一度登れってことか? 下りだって1時間掛かる、山小屋に戻った頃には足がガクガクした。 そうか・・・明日だったのか。 さて、翌日、私はもう1回登ったのでしょうか? ●10/21 今日、ユニクロに行った。道路が意外と空いていて開店の10分前に着いてしまい、クルマの中で雑誌を読んでいた。11時になってガラガラとシャッターが開いたが、待ってました・・・とばかりに駆け込むのはカッコ悪いかな?と思い、並んでいた数人が入るのを待っていた。するとユニクロの若いスタッフが私のクルマまで来て「いらっしゃいませ、お待たせしました」と言う。ほ〜・・今時のサービスって、こうなのか。 KFSにも7時前から来られてクルマの中で待っている方がいるが、私が「いらっしゃいませ、お待たせしています」って声を掛けたら気持ち悪がられるだけだろう。で、ちょっと感心してしまったのだが、あそこのユニクロは駐車場がやたらと広く、どう考えても客でも関係者でもないだろう、というクルマも停まっている。もしかしたら、そんなクルマのヒト達に「ここはユニクロの駐車場ですよ」って注意を兼ねているのかもしれない。なーんて偏屈に考えてしまうオヤジがユニクロで買えるモノは、パンツと靴下くらいなものだ。 ●10/19 一昨日、1号池の水車が壊れた。修理に手間取り、今日の昼まで止まったままになっていた。この水車は1年ぐらい前から酸欠防止のために回っているのだが、私としては無い方が釣り易かったし、実際、釣れたように思っていた。ところが今回、水車が止まってみると、まったく釣れなくなってしまった。1号池は水深が浅いので、あんなちっちゃな?水車でも池底まで強い水流が発生し、サカナ達の生活環境に大きく影響していたらしい。水車が止まることによって 池全体の環境が変わり、サカナ達が緊張してしまったとしか考えられないほど渋かった。 水車が起こす音、波や水流も人的プレッシャーを和らげるために貢献していたようだ。北南2号池には、それぞれエアーレーションの設備があるが、あれは放流密度が高くなり過ぎた時の対策として設置したのだが、1度稼動させてしまうとサカナがそれに慣れてしまい、止めると釣れなくなってしまいそうだ。まったく電気代が、たくさん掛かる釣りだ。 ●10/18 自慢じゃないが、私は血液検査をするとコレステロールやら肝機能の数値で、いつも赤点が5−6個ある。医者に「肉ばっかり食って運動もしないんでしょ」と言われるが、肉よりサカナの方が好きだし、野菜や海藻だって普通のヒトよりも食べている。食事の絶対量が多過ぎるのは認めるが・・・。それに運動量だって仕事自体が運動会みたいなものだし、日守山だって登っている。数値が悪いのは家系(血統)かと信じていた。 バルトロトレッキングから帰って来て、生活習慣病??の薬を貰いに行きながら血液検査をしてもらった結果を昨日聞いてきた。なーんと全てが合格点。過去20年間で初めてのことだ。トレッキング中は肉はほとんど食べないし腹7分くらいしか食べない、毎日必要以上?に歩く。早寝早起き、なんてったって酒は無い。今回の好成績の原因は、これしか考えられない・・・だろう。となると、赤点の原因は、やっぱり食い過ぎ、飲み過ぎということになるのか。検査結果の数値が良かったのは嬉しかったが、都合の悪い真実を知ってしまった。まあ、プラス思考の私としては、これじゃぁ毎年何回かトレッキングに行かなきゃならないなぁ・・・と理解したのは当然のことだ。 ●10/17 またしても人騒がせな「靖国参拝」だ。二度と戦争をしてはならないという不戦の決意が隣国を逆撫でしているのだが、だからといって「止めました」というわけにはいかないのだろう・・・性格からして。その是非については私のような者に判るはずも無いのだが、手を合わせていた30秒間、何を考えていたかは興味深い。過去の3回は「公式参拝」を掲げていたのに今回は「私的参拝」だそうだ。 教科書問題、戦争責任、天然ガス開発、竹島・・・何時も言いなりの日本が、というか総理大臣が「これだけは譲れない」という態度は、本来なら国民の賛辞を受けそうなものだが、やっぱり危険を感じる。国会で野党や造反議員を丸め込むのとは、わけが違う。ただ、他の政治家先生を含め「靖国参拝」を中止したとしても、他の形での「戦争責任」が浮上して来るとは思う。 ●10/15 パキスタンの地震は、時間が経つにしたがって被害の深刻さが確認されている。ニュースの中で「インドが実効支配しているカシミール」とか「パキスタンが・・・」という聞き慣れない??言葉が出て来る。震源地に近いカシミール地方は第2次世界大戦後、インドとパキスタンが分離独立した際、インド側カシミール地方にイスラム教徒が多かったことが原因となって、今だに紛争が絶えない。複雑に入り込んだ国境線も実は双方が「俺っち土地だ」と主張しているだけであって、まさしく「実効支配」しているだけに過ぎない。 今回、私が歩いて来たバルトロ氷河も、インドは「インド領」を主張している。とりあえず今はパキスタンが「実効支配」しているのでトレッカーや登山隊はパキスタンへ入国する。実は我々が必死で歩いたバルトロ氷河沿いには、パキスタン軍の基地が何箇所もあってインド側の動きを牽制している。基地といっても3−4人が常駐しているだけの「ほっ建て小屋」で対空機関砲などの装備も見当たらない。信じ難いことに、この軍隊は国境の峠、標高6000mのところにまで駐留しているという。恐らくインド側も同じような状況なのだろう。燃料や食品等はロバに運ばせているが、ロバが行けないような高所はヘリコプターでの輸送となる。といっても5000mを超えればヘリコプターは平地の3分の1の積載量しかない。毎日のように最前線の基地に資材や食料を運んでいるのだから、山岳地帯の操縦には長けているはずだ。今回の地震の救援でも活躍しているはずなのだが、報道映像には登場してこない。もっとも、そのヘリコプターが全部救援に向かったら、最前線の兵士は酸素が半分、極寒のカラコルムに取り残されてしまう。 ここは休戦?して、軍隊は山を降りるべきだろう。 ●10/14 へー・・こりゃ便利なものが・・・というわけで先日デジタルオーディオ(512M)を買った、12800円。ところが使い方も満足に判らないまま、バックの中で何に当たったのか液晶面が割れてしまった。こりゃ保証は効かないだろう・・・と思いつつも販売店に修理に出してみた・・・なんと新品と交換になった。時を同じく?某社の血圧計のバッテリーボックスのプラスティックの蓋の爪が折れ機能しなくなった。蓋だけが交換出来れば簡単に直るだろう・・・もちろん保証期間を過ぎているから、ただというわけにはいかないだろうが、手数料だけの1500円??位を想像していた。販売店では今7000円で売ってますから買った方がいいんじゃないでしょうか、とは言われたが、2年しか使っていないので蓋以外は綺麗だし問題ない・・・が4000円掛かった。 今の日本の構造では修理が高いものにつくことは判るが、その一方ではリサイクルが叫ばれて、そのために価格にリサイクル料金が上乗せされている商品もある。デジタル商品は、その性格上、長期間使われる可能性は少ないが、もう完成されて、これ以上の進歩?は必要ないと思える商品は簡単修理の体制を整えていくのが宇宙船「地球号」の務めだろう。 更に時を同じく?? 誰かが言っていたようにカラコルムから「破壊の神」を連れて来ていまったか? 水中撮影で活躍しているキャノンのコンパクトデジカメが壊れた。これも中身ではなくレンズバリアだ。保証期間中だったので修理に出した。で、思ったのだが、まだ1年しか経っていないのにカメラ屋さんに行ってみると、そのカメラはもちろん無いし、ショーウィンドーに並んだデジカメと比べると、なんて時代遅れなデザインかと思えてしまう。恐るべし「デジタル文化」・・・その割りに中身は余り変わっていないような・・?? 悪いことは続くもので、愛用のEOS20D(デジタル一眼)の底蓋をとめてあったネジが1本抜け落ちているのに気が付いた。何でネジが・・・バルトロの旅がに過酷だったということか。これも修理か・・・保証期間は際どく過ぎてる。 ●10/12 パキスタンの地震の被害は、ますます拡大していくだろう。先月、私が行って来たパキスタンだが被害が集中しているところは、我々がバスで通過した辺りだ。首都イスラマバードの北150km付近が震源というから、帰り道、1泊したベシャム辺りの被害が心配される。カラコルムハイウェイ沿いに町が点在していて、更に枝分かれしたジープ道は、たくさんの小さな村に繋がっている。そのカラコルムハイウェイ(KKH)でさえ、風が吹いても崩れそうな道だ。もともとKKHは厳しい自然環境の中を走っていて、崖が崩れたらブルトーザーで土砂をインダス川に落として通路を確保する・・・という考えのもとに造られていると思わせる道路だ。簡単に土砂崩れが発生するが復旧も素早い。しかし今回の地震で大規模な土砂崩れが多数発生して、KKHが寸断されたとしたら、救援物資を潤沢に輸送出来る様になるまでに相当な時間が掛かるはずだ。さらに、そこから先の村まで救援物資が届くのは何時のことになるのだろうか。KKHは5000mのクンジェラブ峠を越えて中国まで通じている。中国側からの援助も期待したいところだ。 カラコルムのトレッキングのシーズンは6−9月くらいだから、ほとんどの登山隊やトレッカーが帰った後だったと思われる。地震がもう1ヶ月早かったら私達も途中の村に閉じ込められていたかもしれない。パキスタンの山奥、私も旅してみて「なぜ、こんな厳しい環境の中に住まなければならないのか」と思うようなところに人々の生活がある。電気や水道はもちろん無い。巨大な山塊の斜面にかすかに踏み跡が確認できる、それが集落への道だという。確かに地震が大都市を襲えば被害は甚大となるが、忘れ去られてしまいそうな山の民も悲惨だ。このまま廃墟になってしまう集落もあるに違いない。たまたま「柿田郎の写真館」の上から8枚目に、震源地に近いベシャムの町を写した写真がある。 ●10/11 その怪しい男は私に「怪しい男を見ませんでしたか・・・?」と聞いてきた。お前が一番怪しいだろ!! 彼は警察手帳を見せながら、「近くのショッピングセンターで、どろぼうを働いた3人の外国人がこちらに逃亡した・・・気をつけて下さい」と言う。私服だというが制服より判りやすいぞ! まるでスワットじゃないか。一緒に記念写真を撮りたかった。それにしても、あの2本束ねて持っていた黒いゴムを巻いた警棒のようなものは何だったんだ・・? その直後にはKFSにパトカーが来て、普通の私服警官がしばらく張り込んでいた。こちらは、まったく普通で○野さんなんか、お客と間違えていた。それにしても物騒な世の中になったものだ。結局犯人が捕まったのか逃げられたのかも判らなかった。30分ほどKFSにいて、帰宅すべく広小路まで歩いた(クルマが無い)のだが、何台ものパトカーが走り回っていた。 KFSへ入ってくる道は、自転車やバイクなら抜けられるが北池のところで行き止まりになっている。パトカーに追いかけられたクルマは捕まってしまうが、バイクは逃げてしまう・・・参考までに。 ●10/10 7日に沼津に用があったのだが駐車場がないところなので電車で行った。私が住んでる伊豆の国市は田舎だが電車のアクセスは意外と良い。伊豆箱根鉄道の韮山駅まで歩いて5分、朝夕は1時間に5本は走っている。JR三島駅まで17−18分、東海道線と新幹線に乗り換えることが出来る。 で、用を済ませて帰りはKFSに寄ろうかと沼津から路線バスに乗った、このバスに乗るのは10年ぶりくらいだ。バス亭から歩いてKFSが見える辺りにさしかかった時、なんと白のトヨタアリスト(手配中・・?)が私の前に止まった、駐車禁止だろ、ここは・・・怪しい・・・けど危ないかも。横を通り過ぎながら車内をチェックしようとしたら(デジカメの感度は上げた方がいいかな・・・)ドアが開いて、黒ずくめ、スポーツ刈りの筋肉マンが降りてきた。なんだよ、手にはヌンチャク?のでかいのまで持ってるぞ。目を合わさないように通り越したことは言うまでも無い・・・ええ?あの黒いベストは防弾チョッキ・・じゃないか! 私がKFSの北西側(丸池の向こう側)の坂を降りると、なんとヤツがついて来るではないか! ここから先は町民の散歩コース、そのカッコで歩いたら、たちまち警察に通報されるぞ! そのシュワルツネッガーみたいな男が、「ちょっと・・・」と後ろから私に声を掛けた・・・さあ、私はこの危機をどうやって切り抜けたのか。答えは集会所へ。 ●10/1 日守山からコンコルディアへ・・・その7 今回のトレッキングでは日本人ガイドのイワサキ氏についても語らなければならない。45−46歳かな。髪を背中まで延ばし赤いターバンを巻いている・・・という日本でだったら異様な姿だ。今まで8000m峰を含む7000m以上の高峰を20座近く制覇しているとい、正しく山のエキスパートだ。バックパッカー歴も長く、意外にも腹は私よりも出ているので親しみを持った。 普通の正しい日本人にとって、私がいい歳をして1ヶ月もパキスタンに山歩きに行くとか、若い時には片道キップで何ヶ月も旅をした・・・なんて聞くと「ちょっと変??」と思うかもしれないが、彼の話を聞けば私が、いかに普通の日本人であるかが判る。イワサキ氏の拠点はパキスタンらしい・・・既に変だ。ある時、アンデスの山に登ってみたくてパキスタンの仲間に「半年で帰るから・・・」と出掛けて、いくつかの高峰を登り終えてパキスタンに帰ってきたのは4年半後だったというから、どんな基準で考えても絶対に変だ。 私が憧れているカイラス1周トレッキングも、ヒマラヤの7000mを登った帰りに凍傷に侵された足を引きずって2日間で周ってしまった・・・というから話にならない。冬には富士山の測候所で食事係りのアルバイト。真冬のお鉢巡りを日課としていた・・・こりゃ完璧に変だ。まあ、パキスタンの山を20日間も歩こう・・・という変な4人のガイドとしてはピッタリだったのだろう。イワサキ氏のお陰で、旅行とかトレッキングとかいう概念では語れない1ヶ月だった。イワサキ氏は今頃はネパールのゴーキョの谷を10数名の日本人グループのガイドとして歩いているはずだ。 ただ、私が「帰りの飛行機を1週間遅らせて、もう少し遊んでいこうよ・・・」と提案したのを皆、冗談だとしか受け止めてくれなかったのは残念だった。 |
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